常福寺(曹洞宗)

〒754-0213 山口県美祢市美東町長登481

電 話/08396-2-0080

FAX/08396-2-0198

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【御詠歌】

 

 

 

【銅の里】

 美東町は、山口県の中西部にひろがるわが国最大のカルスト台地、秋吉台国定公園内に位置する。ここはその昔、東大寺大仏の銅を採掘した里としても有名である。そうした環境に常福寺がある。元来長福寺と称し、大同二年(807年)の開創である。

はじめに寺史を追う。「町誌」は、次のように記す。

 -元和元年(1615)開祖宗珍。寺伝によれば、もと長福寺と称したが、享保元年(1716)常福寺と改称した。

明治八年(1875)ごろ当山二十世・真定の代に諸堂をことごとく焼失、現本堂は明治十一年に再建した。元和元年(一六一五年)に再建され、本寺である長門湯本 大寧寺二十世國嵬宗珍が開山となり、享保元年(一七一六年)に幕命により常福寺と改称した。常福寺と改称したのは、公儀に長福丸君が誕生したからではないだろうか。島根県のある寺院でも、その筋の達しをもって改名している。

 本寺 長門湯本 大寧寺は、大内義隆主従が自刃したところで、のち毛利元就が堂宇を再建して義隆の霊を弔った。盛時には末寺六百カ所を擁する防長二国の名刹である。

東大寺大仏の銅鉱石を採掘したのは、地名にも見られる「長登銅山遺跡」がそうである。寿永元年(1182)大仏螺ら髪ほつの鋳造がはじまった。

 常福寺境内は、以前より東吹屋製錬遺跡と周知されていた。試堀調査が行われ本堂の東斜面・本堂床下等の調査がされた。境内では、わずかであるが銅鉱石を拾うことができる。本堂左手に「薬師堂」があり、長登銅山で働く人々、地域の人々の為に「一畑薬師」をまつり勧請し、脇侍に毘沙門天と諸尊をまつる。

  近郷では、大田・絵堂の戦いが美東町内であった。この戦いは、諸隊と萩政府軍との戦いで、近代日本誕生の足がかりとなり明治維新をうかがう歴史ある戦いが偲ばれる。高杉晋作・山県有朋等の軍勢が有名。この長登でも戦いがあり、赤間関街道沿いなどから砲弾が発掘。また近くに諸隊本陣跡「金麗社」等の関係史跡が数多くあり、「長登銅山文化交流館」では、銅山遺跡と大田・絵堂戦役遺品展示がされている。

 

 【福原乙之進(ふくはらおとのしん)の墓】(伝:鞍馬天狗)

 

 墓は、元来長登村の刀禰にあった毘沙門堂境内に所在(この場所は福原屋敷の前に当たる)していたが、移転を余儀なくされ、常福寺が引き取った。

 乙之進は、長登在郷武士福原熊槌の嫡子として、天保八年(一八三七)に出生、文久二年脱藩して上京、十二月には高杉晋作達と英国領事館の焼打ちに参加し、逃走中爆弾の火薬を口に含んで隠したと伝える。志士として活躍し、久坂玄瑞とも交友大であった。翌三年十一月赤坂の土井邸で密議中に古河藩士に襲われ自刃。行年二十七歳。勤王の功労を追賞され従四位を贈られた。

 説『鞍馬天狗』を執筆された大仏次郎氏は、昭和四十一年に美東町を訪れて維新史跡を探訪され、福原乙之進の進出奇抜な行動を評価されたといわれ、小説上の人物「鞍馬天狗」のモデルであったといわれている。「美東町史参考」

 

【道順】

 

電車・バスの場合=JR山陽新幹線・山陽本線の新山口駅から萩行バス(防長交通・1時間に1便程度、約40分)にて「長登銅山入口」下車、徒歩7分程度。

 

車の場合=中国自動車道の美祢東JTCから小郡萩道路(無料)に入り、大田IC出て、ここから車で約5分(国道490号 萩方面へ)、「長登銅山入口」バス停(三叉路)を入る(左折)普通車20台程度駐車可。大型バスは長登銅山文化交流館・遺跡公園に駐

車電車・バスの場合=JR山陽新幹線・山陽本線の新山口駅から萩行バス(防長交通・1時間に1便程度、約40分)にて「長登銅山入口」下車、徒歩7分程度。

車の場合=中国自動車道の美祢東JTCから小郡萩道路(無料)に入り、大田IC出て、ここから車で約5分(国道490号 萩方面へ)、「長登銅山入口」バス停(三叉路)を入る(左折)普通車20台程度駐車可。大型バスは長登銅山文化交流館・遺跡公園に駐車。 


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