瑠璃山 薬師院(真言宗善通寺派)
〒716-0041 岡山県高梁市上谷町4100
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【御詠歌】
のきちかき るりのおやまの まつかげに
夕ぐれちかく 月いでにけり
高梁市は、備中松山城の城下町である。仁治元年(1240)秋庭重信が、市街の中央に位置する臥牛山に築城したのが創まりである。
現在の城郭は、天和元年(1681)水谷勝宗が築いた。毛利氏の時代に輝元が拠ったこともあるが、江戸時代に水谷家は世継ぎがなく、幕府は播州浅野家に在住を命じて、大石内蔵助がその任に就いた。当時の一行に、赤穂義士のうち神崎与五郎・武林唯七・岡野金右衛などがいる。
薬師院は、松山城に対峙してある。正しくは瑠璃山薬師院泰立寺という。真言宗善通寺派である。
寺伝によれば、花山法皇の本願により、寛和二年(986)原村(現在の高梁駅周辺)に創建されたと伝う。
慶長五年(1600)備中代官小堀正次が入国して、城下町の整備を行った。これに伴い現在地へ移転を図り、石垣の築造に着手、二十余年を経た元和十年(寛永元年 1624)五十一代院家宥遍の代に完成した。
建物は、薬師堂(岡山県指定重要文化財)・大師堂・客殿・庫裏・経蔵・仁王門(高梁市指定重要文化財)の他に、消失した多宝塔・奥之院などもあった。
本尊の薬師如来および日光・月光菩薩は秘仏、五十年ごとに開帳する。備中三十三観音霊場第四番札所。大山堂に安置する延命地蔵石像(鎌倉期作)は、高梁市指定重要文化財。寺宝の阿弥陀来迎図は、説に平安末期作という。末寺十三ヵ寺があった。
善通寺は、大同元年(806)唐より帰国した弘法大師が、父母・先祖の追福のために、長安の青龍寺に模して伽藍を建立したと伝う。
【桃山様式を伝える本堂】
花山法皇は、人皇六十五代天皇である。即位されたのは、永観二年(984)十七歳のときであるが、二年後に出家退位して入覚と号した。寛弘五年(1008)四十一歳で崩御するまで、諸方を遊歴された。『栄花物語』に、
木の下をすみかとすればおのずから
花見るひとになりぬべきかな
とある。
奥之院とは、本堂や拝殿とは別に、開山の像あるいは本地の仏像を安置して、難を避けるために設けた場所をいう。
薬師院本堂は、三間四面の入母屋造り、単層、本瓦葺きで、正面に一間の向拝を構える。元和十年(寛永元年 1624)建立した。詳細な説明は省くが、桃山建築の特徴をよく表す建物である。
内部は外陣に畳を敷き、内陣は来迎壁の前に禅様の須弥壇を据え、唐破風の厨子に本尊を安置する。いずれも格天井である。
寺宝の阿弥陀来迎図は、臨終に際して阿弥陀如来が、二十五菩薩を従えて亡者を迎えにくる光景を描いた図、聖衆来迎図または迎接曼荼羅図ともいう。
この他に、梵鐘(伝花山法皇寄進)・大黒天(伝湛海作)・滝見観音(伝雲信筆)・涅槃像(伝尾摩正筆)・黒龍登降の図対幅(伝呑舟筆)・頼山陽書数点などがある。
境内は、二層の楼門から上に諸堂がある。
往古、二十年を要して積み上げた石垣は、まさに城郭である。昭和58年に寅さんこと渥美清が撮影に訪れたが、彼はこの地で何を祈ったか、その胸中は察して余りある。