〒708-0006 岡山県津山市小田中876
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【御詠歌】
山路へて 参るもうれし この寺へ
薬師如来は いつもかわらじ
【行基菩薩の開いた精舎】
岡山県の奥地、津山盆地に拓けた街である。
慶長八年(1603) 森忠政が鶴山城を築いたのが繁栄の基である。経済面では、吉井川を溯る物資の集散地として栄えた。文化的には、小京都の異名を持つが、もう一つの魅力は、「美作三湯」といわれた湯の里に旅情がある。
美作三湯とは、湯郷・奥津・湯原温泉をいう。
脇道にそれたが、長雲寺は 『作陽誌』に、その昔、厩戸皇子、諸国を狩りして、この地に来たりて、「わが死後に、必ず一比丘あり、蘭若 (寺院) をここに建つ」と告げた。果たして聖武帝 (724~748) 草庵を結ぶに及び、僧行基、国司に勧めて精舎を開き、仏法東漸寺と称す。ときに僧綱(住職) を勝満院と号す。
爾来、頗る隆盛す。貞治年中(1362~1368) 国乱れて兇賊、神楽尾城を陥さんとして、久米神南山に陣す。東漸寺はその中間にありて悉く焼失して廃墟となる。
慶長年中(1596~1615)荒跡を墾すとき、薬師如来像を得たり。これ昔日の本尊なり。因って庵を結び之を安置す。
寛永元年(1624)備中の沙門、西乗院ここに一宇を営みて住す。いずれの時にか備中に帰る。同三年、宝珠院円寿が修造を加えて中興す。はじめ医王山長雲寺と号す。里人の水害・早魃・疫病をして求るならば、すなわち必ず祈祷す。感応は響くが如し。
明暦三年(1657)藩主・森永継公の女、疫病にかかり、湯熨百計も効なし。長継公、これを煩い、救いを祈る。俄然、平癒を得たり。翌年龍を抂げてここに詣で、囃物若干かつ使に命じて新たに仏殿を営む。現本堂これなり。と記す。正しくは医王山薬師院長雲寺と称す。
【鎮守堂の摩利支天】
それにしても、古心の人はどうしてこうも美文なのか、たとえば最後にある「龍を抂げてここに詣で」という表現から、狂(抂)うが如く、駆けつけた藩主の喜びようがうかがえる。
行基菩薩が四十九院を建立して、薬師如来を安置したのが、我が国における薬師信仰の嚆矢とも言われている。行基菩薩が国司に勧めて一宇を草創したとき、薬師如来をまつったのは、ある意味では当然といえよう。
その像が、江戸時代に焼け跡から発見された。
脇侍は不動明王と愛染明王で、鎮守堂は、寛文年中(1661~1673)都築吉次が建立した。摩利支尊をまつる。
摩利子尊は、日月の光をあらわす。陽炎または威光と訳す。もとインドの天神で、太陽の光焔を神格化した天尊をいう。
密教では、大黒天・弁財天・摩利支天を三天と称す。摩利支天は、日展の前方を走り、国を護り、民を護り、五穀を養い、兵難を救うことを役目とする。軍神・農新の天として敬われた。
中世以降、武士の間で信仰が盛んになり、楠正成はこの像を甲冑に納めて、隠形の秘術を用いて戦ったという。
段丘の境内は、踏み慣らされた石段に、往古の繁栄を偲ぶことができる。道内は諸仏龕の様相を呈して、あまたの仏菩薩が坐す。やがてこの仏たちがあまたの験を発揮して、諸々の光明を与えてくれることだろう。
前庭に、「黒猫の子は黒猫や夏涼し」と刻む。当然のことを、当然と感じて生きることは難しい。