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【御詠歌】
陽の道と 法をむすびし 恩徳寺
神も仏も はちすのみやま
【秘仏・薬師如来坐像】
岡山市街の東、山上には磐座、周囲には確認されているだけでも126基を数える古墳群がある操山(三棹山)の麓に位置する。寺の北に流れる百間川では弥生時代後期の遺跡が出土し、古しえからの歴史を感じさせる。正しくは、沢田山恩徳寺西方院という。
本尊に薬師如来坐像(秘仏)をまつる。
寺伝には奈良時代に行基菩薩が草庵をむすんで自ら彫刻した等身大の薬師如来像をまつり、のち天平勝宝二年(750)、孝謙天皇の勅許を得た報恩大師によって備前四十八カ寺の一つに加えられたという。
報恩大師は備前の人、奈良時代の高僧である。備前に四十八ヵ寺を建てて仏国土を成したほか、天平勝宝四年(752)大和に小島寺を開き、坂上田村麻呂将軍の帰依を篤くした。 ときに僧延鎮が京都に清水寺を建立したのも、報恩大師とは師弟の間柄であったのが幸いしたという。延暦十四年(795)小島寺で遷化す。
文禄四年(1595)備前四十八ヵ寺領、ならびに分国中大社領目録(金山寺文書)には、沢田寺と記して寺領三十石を付す。はじめは沢田寺と地名を用いたが、まもなく恩徳寺の寺号を使うようになった。思うに寺号は、報恩大師の徳に報いるためか、あるいは『恩徳和讃』に、
「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」 とある。
もとは三論宗の寺院であったと伝えられるが後に天台宗に属し、近世頃には真言宗に改宗。現在は高野山真言宗。
往古は、寺の西の丘陵に明禅寺城があった。永禄九年(1566)備中高松城主・三村家親を討った亀山城主・宇喜多直家が、家親の子・元親勢の反撃に備えて築城したと伝う。山内には、西方院・池松院・多聞坊・薬師坊があった。また少し離れて医王院、光明院、竪巌神社があったが医王院は寛文六年(1666)岡山藩による寺院淘汰によって廃寺となった。
嘉永五年(1852)仁王門を残して西方院を焼失。間もなく再建したが、明治四年(1871)に多聞坊と薬師坊を、明治三十八年(1905)に光明院を廃止、池松院を西方院に合併。竪巌神社は明治初年の神仏分離に際して、寺内に移転して現在に至る。
境内には金祐稲荷大明神社・七福神社などが並び、なかでも本堂うしろの高台に最上正一位堅巌稲荷大明神をまつる竪巌神社はとりわけ霊験あらたかで、戦後に衰退してしまうが、備前国の稲荷詣りといえば、昔は竪巖神社がもっぱらであった。また、国指定重要無形民俗文化財に指定され、「日本3大奇祭」として有名な西大寺の会陽(裸祭り)は恩徳寺でも開催されていた。当時の新聞には参詣は数千人と紹介されている。
現存する主な建物は、明治四年に建築した客殿と庫裡、同十年の本堂、および大師堂・鐘楼・観禅堂・山門などである。山門は、控柱が本柱の前後に各四本、計八本ある。俗に楼門ともいう。これに高欄つきの回縁を付す。堂々とした構えである。
本堂は寄棟造り。東に面して建てられ、寺の真東に位置する高倉山の山上にある磐座より昇る太陽を拝する古代太陽信仰の形跡を色濃く残す。天井には彩色画と方二メートルの大きな方位盤がある。大棟・隅棟や稚児棟に藩主池田家の紋を飾るのが特徴。
明治政府の神仏分離令により寺院神社を取り巻く環境が大きく変わるなか、先徳の尽力により神仏混淆の姿が残されている。