〒699-0763 島根県出雲市大社町日御碕653
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【御詠歌】
眼のやまい まことごころに いのるこそ
天に一つの くすりなるらん
【日御碕神社の本地仏】
島根半島の北西端、日本海に突き出た岬に位置する。南側は小高い山々が連なり、北側は波濤に浸食された荒々しい景観に魅了される。
この岬に日御碕神社が静まる。権現造りの社殿は、神ノ宮(上宮)と日沉宮(下宮)からなり、俗に「西の日光」ともいわれる。
社伝によると、神ノ宮は安寧天皇13年、背後の隠ヶ丘から遷座し、主祭神は素戔嗚尊をまつる。日沉宮は天暦二年(948)に北西の経島にあった社を移し、御祭神は天照大神である。
神宮寺は、この社の祭事を司っていた。
寺伝によると、天暦二年(948)村上天皇が日御碕神社の境内に伽藍を創建して、別当神宮寺と称したのが創まりという。
はじめは真言宗であったが、長禄年中(1457~1460)洞松寺(岡山県矢掛町)の茂林志繁が来山して曹洞宗にあらためた。
その後、享保四年(1719)焼失。寛政十年(1798)にも火災に遭ったが、天保七年(1836)十六世玉海良暾が現在の薦沢に移して再建した。明治維新の神仏分離により、神の文字をはばかり、明治六年に順具寺と改称したが、昭和三十四年に再び神宮寺に復した。
薬師堂に安置する薬師如来像は、日御碕神社の本地仏にして伝教大師作、一畑薬師の姉仏という伝承がある。これは古代より朝廷や為政者の信仰を篤くした所以である。また、明治三年まで日御碕神社より、毎年茶湯料として、米八斗、大豆四斗・小豆四斗などが納められた。
【神仏習合の拠点】
少し補足する。神ノ宮は、『出雲国風土記』に美佐伎社、「延喜の制」は御碕神社。日沉宮は、風土記の百枝槐社に比定される。
社名は古代末期に日御碕神社、中世は御崎社、近世は御崎社、明治四年日御碕神社となる。ちなみに「崎」は、さがし険し、危し、山の貌。「碕」は、岸のさき、岸のほとりと解す。
古代末期には、独自の勢力を誇る修験の道場であった。中世に出雲大社の末社となるが、文明三年(1471)幕府の裁定によって自立した。
以来、小野氏が神職を踏襲してきた。
現在の社殿は、寛永十一年(1634)徳川家光の命により、松江藩主・京極氏が造営に着手、松平氏が継承して同二十一年に完成させた。社宝の中には、多くの国指定文化財がある。
洞松寺は、応永十九年(1412)怒仲禅師を請して、喜山性讃が開山した。開基は猿掛城(吉備郡真備町)城主・荘駿河守元資である。喜山派の筆頭にして、当時は門末千二百八十七ヵ寺を擁していたという。
神宮寺とは、本地垂迹説(仏菩薩が神に化身して、権に姿を現す)から興った神仏習合の思想、すなわち神社に付属して仏事を行い、神に仕える寺院。神護寺または別当寺などもそうである。
遠い昔、仏教伝来の当初、請来したのは、薬師如来であるともいわれている。医療の乏しい時代である。薬師如来の誓願に委ねて病根を除くのが、最良の方法と考えられていた。これが薬師信仰の始まりである。