延命寺(真言宗醍醐派)

〒699-0611 島根県出雲市斐川町阿宮1804

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【御詠歌】

 花々の 香りも高き 法の山

いのち延らう 南無薬師如来

 

【神話の里の古寺】

 山陰の大河、斐伊川は神代の昔に、素戔嗚尊が八岐の大蛇を退治したという伝説がある。この右岸に拓けた斐川町は、出雲神話の里であり、加茂岩倉遺跡とも町域を接する。

 「斐川町」の資料によれば、開創年月は定かでないが、正中元年(1324)造営の棟札には、金光山長福寺と号した。本尊は薬師如来、脇侍に阿弥陀如来と観音大士を安置する。

 中興の祖・快弁法印は祐教坊と称して、真言宗の法灯を拡めた。以来、仁王護国般若の秘法を怠らなかったという。

 応安七年(1374)二世・快完和尚の代に阿宮城主・葛西多門が当寺を祈願所と定めて戦勝を祈り、法螺貝一具を寄進した。

 長享年間(1478~1489)八世・快猛和尚に帰依した葛西兼冬が太刀を奉納。長く護持してきたが戦後の刀剣所持法により、供出したのが惜しまれる。その子兼繁も、永禄年中(1558~1570)快宝和尚の代に鏡一面を寄進している。

 元亀年間(1570~1573)葛西城の陥落に伴って一時は衰退に傾いたが、寛永年中(1624~1644)松平直政が松江城に移封、ときに当寺を鎮護道場と定めて、領内各戸に祈祷札を配った。行事はその後も続いたが、明治維新に廃止されたという。

 享保年中(1716~1736)とも思われるが、松平氏に長福丸君が誕生したため公儀のお触れにより、長福寺を改めて、延命寺と改称した。

 寛文九年(1669)十五世快弁和尚が、中興初代を襲名して再中興した。さらに宝暦九年(1759)毘沙門堂を建立、五穀豊穣・牛馬の安全を祈った。

 往時は、上津渓谷の北岸にあった。宝暦年間の記録によると、二間四面の本堂を構えていたが、斐伊川の洪水に悩まされていた。その後、本堂は斐伊川の洪水で流出した。ときに住持・快教法印は、難を避けて本尊を現在地に安置したと伝う。

 

【火渡りの行】

 明治二十一年(1888)七月、二十二世快柳法印が住職となり、方八町を隔てた仏経山麓に奥之院を建立、聖観音、弘法大師、金毘羅大権現を安置した。ときに入仏供養行列は、蜿々十余町にも及び、さながら一幅の絵巻物を見るが如く壮観であったという。

 奥之院も、昭和二十一年の敗戦で廃院の止むなきに至ったが、これを惜しむ声が頻りに起こり、昭和四十八年四月に、柴灯護摩供を厳修して再興の狼煙を上げた。

 柴灯護摩供は、四月第一日曜日に行われる。

 修験の道場・大峰山で伝授を受けた現住快宥僧都が、火生三昧の導師となり、参詣者が素足で火渡りを行う。

 昭和五十年十月に持仏堂を再建。同五十五年に出雲国引不動尊霊場第三番霊場および水行場を開設。同五十六年四月には、もと奥之院の岩屋不動を勧請、護摩道場に不動堂を建立して安置する。

 昭和六十一年三月には、護摩道場に新たな修験門(冠木門)を建立、寺門の一新を図って現在に至る。石柱で決壊した護摩道場は瀟洒である。

 火渡り(火生三昧)のことを地元紙は、伝統の厄払いは、神楽奉納、本尊供法要に続いて午後二時過ぎ、呼び物の護摩供養が、勇壮な法螺貝を合図に執り行われると、その様子を伝えている。

 寺宝に、葛西多門氏寄進の法螺貝(長経一尺四寸・短経七寸)、古鏡(外形三寸七分・内径三寸六分)、短刀一口を所蔵している。


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