〒690-0063 島根県松江市寺町164
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【御詠歌】
【毛利隆元の菩提】
明治二十八年に刊行された案内記に、「ここは松平氏の旧城下町。山陰随一の都会なり。市街を貫き流れるは大橋川にて、その南を天神川が流れる。大なる湖水を宍道湖というなり」とある。
寺町は、JR松江駅の西に位置する。
『全国寺院名鑑』には、
毛利元就の嫡男・隆元が、永禄六年(1563)芸州で死去。戦中一時、この地にあった理光庵にて建牌菩提を弔うため、建立されたのが当寺で、光徳寺の梅庵祖文を開祖とする。現在、山口県臨済宗常栄寺が正式に建立されている。
毛利隆元は、出雲の尼子氏と戦う父元就の支援に向かう途中、和智誠春の歓待を受けた翌日に急死した。ときに永禄六年八月四日、法号は「常栄寺殿前光禄大夫華溪栄光大居士」と諡する。
大河ドラマの影響で、中国路は燃えている。書物もかなり氾濫するが、その中から隆元の死を拾うことにした。
永禄六年(1563)七月十二日、隆元は多治比を出て佐々部に至り、しばらく蓮華寺に滞在していた。現在の高宮町である。ここで諸方から来る軍勢を整えて、八月五日には出雲へ出立する予定であった。
その前日、和智誠春から招かれて晩餐を受けたが、蓮華寺に戻るとすぐに苦しみ出して、未明に急逝した。享年四十一.死因は不明、急病とも毒殺されたともいう。
一方、毛利元就は洗骸に壕を掘り、逆茂木を立てて土塁を築き、陣屋をつくり、京都から商人や職人を招いて住まわせ・悠然と構えていた。
『吉田物語』には、
洗骸は島根郡(現八束郡)のうちなり。湖水(宍道湖)の端なり。ここに山頭御陣城を築かれ、総構えには芝土手を築き、掘を掘り、総人数の陣とり仰せつけられる、云々。
そのとき詠む句に、
秋の月 雪にやにほの浜小鳥
とある。
【清涼俊龍のこと】
父元就が戦地にあって隆元の死を悼み、常栄寺を建立したとすれば、やはりこの時期ではなかろうか。
現在、寺町といわれるだけあって、通りに面して様々な伽藍が立ち並ぶ。そうした中で常栄寺は、安政年中(1854~1860)本堂を再建した。
堂宇に「瑠璃殿」と掲げる。瑠璃殿は薬師如来の浄土、右筆は「清涼俊龍」とする。彦根藩井伊家の菩提寺、清涼寺二十五世・寂澤俊龍のこと。俊龍は、桜田門外の変で殺された井伊直弼の葬儀に、導師を勤めた禅僧である。
松江藩は、堀尾氏のあと京極氏を経て、松平氏の世代となった。松平氏は徳川家の譜代、重臣の井伊家と親交があるのは当然で、ともに曹洞禅を弘通する精舎でもあるが、僧俊龍の資料を持つ者は少ないといってよいだろう。
この他に、土蔵と庫裏がある。