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【御詠歌】
國分寺 大悲のちかい 昔より
今にかわらで とうとかりけり
【聖武天皇の発願】
國分寺は、今からおよそ1280年前、天平13年、西暦では741年に聖武天皇が、「國分僧寺尼寺建立の詔」という詔勅を発せられ創建されたお寺です。全国66州、それに島に二つ、都合68の國分寺が造られました。
なぜ聖武天皇は國分寺を造ろうとされたのか。その詔の100年ほど前に乙巳の変と言われる政変がありましたが、当時都の政治は度重なる不穏な事件が繰り返し起こり、また饑饉や災害疫病が蔓延する混迷を深めた時代でした。そこで、聖武天皇には仏教という進んだ精神文化の中心となる施設を諸国に造ることで日本国を刷新したいという志があったと考えられます。当時仏教は先進各国で導入する最先端の建築技術、木工、金属工芸、芸術、文化、思想を集約するものでした。
天武天皇の時代に進展のあった、中国に倣った律令制度によって政治経済が調えられつつあり、そして聖武天皇の時代に、中央には東大寺を造り、政治経済の中心である都への中継拠点として各国の国府に隣接する國分僧寺、國分尼寺を創建したのです。鎮護国家、それに五穀豊穣、万民豊楽を祈願するという信仰の場であるとともに、それは当時の最高の文化の象徴であり、国の権威を人々に示すものでもありました。
創建当時の備後國分寺は、古代の山陽道に面して南大門があり、門を入り東側に七重塔、西側に金堂があり、その少し奥中央に講堂がありました。金堂は、基壇が東西30メートル南北20メートル。七重塔は18メートル四方あり、高さは約50メートルと推定されます。講堂も基壇が東西30メートルと、昭和47年の発掘調査で確認されております。
これは、奈良の法起寺式の伽藍配置とされ、寺域は600尺四方、およそ180メートル四方が築地塀で囲まれた境内だったと言われています。この他に僧坊、食堂、鐘楼堂、経蔵などがある七堂伽藍が立ち並び、最盛期には12の子院がありました。その発掘では、たくさんの創建時の瓦が発見されており、重圏文、蓮華文、巴文の瓦が確認されています。
当時の金堂には、丈六の釈迦如来像が安置され、これは、立ち上がると約5メートルの大きなお釈迦様の座ったお姿、おそらく座像であったであろうと思われます。七重塔には、國分寺の詔において聖武天皇が発願された「金光明最勝王経十巻」が安置されていました。正式な國分寺の名称は『金光明四天王護国之寺』ということもあり、その経巻こそが國分寺の中心であったであろうと思われます。
それは、護国経典として、当時とても重要視されたもので、その備後の國分寺にあった「紫紙金字金光明最勝王経十巻」は、衰退した時代に沼隈の長者が手に入れ、その後、尾道の西国寺に寄進されて、今では、奈良の国立博物館に収蔵されて国宝に指定されています。奈良国立博物館ホームページ名品紹介をご覧ください。
その後、平安時代になりますと、律令体制が崩れ、徐々に國分寺も衰退して参りますが、鎌倉時代中期になりますと、中国で元が大きな勢力を持ち、元寇として海を渡って攻めてまいります。そうなりますと、もう一度、國分寺を鎮護国家の寺として見直す動きがあり、その時には奈良の西大寺の律僧が盛んに西国の國分寺再建に奔走したとされています。
平成17年に仁王門前の発掘調査があり、その時には、鎌倉室町時代の地層から、たくさんの遺物が出土、当時の再建事業の後に廃棄されたものではないかと推定されています。それは創建時から今日に至る國分寺の盛衰を裏付ける資料となりました。
そして、時代が室町戦国時代になりますと、戦さに向かう軍勢の陣屋として國分寺の広大な境内が使用され、戦乱に巻き込まれ焼失、再建されています。江戸時代初期には、延宝元年、1673年に、この上にある大原池が大雨で決壊して、土石流となり國分寺を流し、たくさんの人が亡くなりました。その後、この川に砂留が造られ、今日では文化財となっています。
そして、その水害によって失われた國分寺は、その20年後福山城主水野勝種侯の発願により近隣全村から寄付を集め、城主自らが大檀那となって、用材、金穀、役夫の手配を受けて、200メートルほど北上し現在の地に再建されたのが今日の伽藍です。元禄7年に本堂が再建されています。
それから、徐々に伽藍が整備されていきますが、伽藍が今日のように整った頃、神辺に登場して参ります儒学者菅茶山先生は、何度も國分寺に足を運ばれ、当時の住職、高野山出身の如実上人と昵懇の仲になられ、鴨方の西山拙斎氏と共に来られ聯句を詠んでいます。それが仁王門前の詩碑に刻まれております。茶山先生も交えてここ國分寺で歌会も何度か開かれ、当時の文人墨客の集う文化人のサロンとして國分寺が機能していました。
今日では、真言宗寺院として、江戸時代から続く信心深い檀家の皆様の支えによって護持いただいております。創建当時の様子などを想像しながら、是非、ご参詣ください。