〒722-2101 広島県尾道市因島大浜町2213
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【御詠歌】
ありがたや 天海山に もうで来て
瑠璃の光に あうぞうれしき
【因島村上氏のこと】
瀬戸内海航路の要衝であった因島は、古くは久比島とも呼ばれていた。大化の改新後に因島は、海上警備 ・航路案内・水駅管理・海関の守備および舟銭事務などを設けて次第に発展した。
南北朝時代に、因島を支配していた上原一族が戦いに破れて終焉すると、天授三年(一三七七)長慶天皇は、上原家の後継者として、源氏北畠党の村上師清に、信州更級郡より下向を命じた。
その子長男が能島村上氏、次男が来島村上氏、 三男の吉豊が因島村上氏を名乗り、土生の長崎山に居城した。
見性寺は、「因島大橋」の裾にある。「因島史考』 には次のように記す。
本尊は薬師如来で室町時代の作と伝える。大永五年(一五二五)大岳文禎大和尚を開山、 田中右近の創立という。墓地に田中右近の墓という五輪塔がある。
大岳文禎大和尚の行履は不明。曹洞宗では転衣以上の僧または一寺の住職を和尚、結制修行後の僧を大和尚という。当時はかなりの名僧であったと思われる。
田中右近も武将というだけで、 因島史にまるでその名を留めない。右近は近衛府の一部、天子の護衛を司る官名。 すなわち姓は田中、右近は村上主家に従う近衛兵を意味するのか。
大浜町の小丘陵に、村上丹後守吉房が居城した幸崎城跡がある。本丸から北の削平段状に構えていた。田中右近はこの吉房を護衛していたのか、この山裾に見性寺がある。
因島村上氏は、幹部が五十八人衆、番頭が十八組、城主一門衆二十二騎、外様大将衆二十八騎、五家衆八騎、八家大将衆九騎、十八家番頭衆四十騎、足軽衆百五十騎でもって組織していた。
一方、『芸藩通志』には、大永七年(一五二七)田中右近が再建。寛延二年(一六二五)重造すとある。創建のころは、背後の山頂に寺域があったと思われる。六世のとき焼失、七世が現在地に移して再建したのは、ときに寛延二年であろう。
【因島八十八カ所の開創】
はじめにも触れたように、本尊の薬師如来像は説に室町時代の作とする。専門家の鑑定を待たないことには確かなことはいえないが、見事な像容である。
脇士の十二神将も小像であるが、 極彩色を施した造りは整っていて保存状態もよい。こうしたことから推して、熾盛した昔が偲ばれる。
明治二十八年ころ尾道に住む漁師が、四国へ漁に出ての帰りである。一人の旅僧から「どこでもよいから、舟の着いたところに降ろしてもらえないか」と頼まれた。
快く乗せて、何事もなく大浜町の現に灯台のある浜に着いた。旅僧は厚く礼を述べて陸に上がったが、そのあと八十八人の僧が続いたという。
この話が人口に膾炙されて、四国八十八カ所の仏さまが、因島に渡ってこられたという噂が広まった。明治四十五年、全村長が話し合って新四国霊場を設けた。この霊場は 島民の奉仕によってできたので、各寺の経営とは関わりないという。
見性寺の境内は、第六番札所である。
寺号は、心性(仏性)を徹見して、ただちに仏になることで、禅語にいう「直指人心 見性成仏」がそうである。道元禅師は『正法眼藏』第三に「仏参は正の時あにあり、死の時に無いと思うのは、参学未熟である」と述べている。