浄福寺(臨済宗妙心寺派)

〒739-2433 広島県東広島市安芸津町風早385

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【御詠歌】

 幸の風 早や吹き来たる 瑠璃山に

一期一会の えにしうれしさ

 

【行基作の薬師仏】

 ここは、瀬戸内海に面した港町である。海岸線は中央部が深く湾入して、波静かな安芸津湾を形成する。漁業は安芸津・風早の両港で行われているが、規模はそれほど大きくないという。

 風早とは、風雅な地名であるが、そのいわれは万葉の昔に溯り、天平八年(七三六)新羅に遣わされた使人たちが船泊りして詠む歌に由来する。

 わが故に妹嘆くらし風早の  浦の沖辺に霧たなびけり

沖っ風いたく吹きせば吾妹子が  嘆きの霧に飽かましものを

 現在、祝詞山八幡神社に歌碑がある。浄福寺はこの神社の後方、段丘に瀟洒な竜宮門を構える。由緒について、寺史は次のように伝えている。

 長徳四年(九九八)別山守燈と称する和尚が薬師瑠璃光如来をまつり、 瑠璃山浄福寺と号したことに始まる。当初は天台宗であった。

 その後、数百年を経て無住となる。さらに山津波などによる被害を被り、わずかに堂宇を残すのみとなったが、慶長五年(一六〇〇)広島藩主・福島正則公によって復興された。

 しかるに、 ふたたび無住となる。慶安三年(一六五〇)虚櫺和尚が錫を転じて来たり、堂宇を字陣ケ下という現在の風光明媚な景勝の山腹に移転す。以後、法灯不断、今日に至る。

安置する薬師如来は、俗に「半丈六仏」という等身大の座像である。寄木造り、漆塗に金箔を施す。面相は丸みを帯びて、顎の部分にやや扁平が見られるが、衲衣(偏袒右肩)の線がごく自然である。寺伝には伝行基作とするが、平安時代の造りを窺わせる素朴な像容に魅せられる。

 創建の地はいまより西部の山中である、そこを「寺屋敷」または「飯米田」と呼ぶ。また付近一帯を「薬師丸」と呼称するのも、本尊を賛嘆してのことである。

 

【十三湊を記す日本最古の文書】

 福島正則が居城広島に移封してきたのは、説に慶長六年(一六〇一)という。正則は直ぐに領内の総検地を行ったが、この時期に浄福寺を再建したと思われる。

 虚櫺和尚は、妙心寺史にその名を留める。中国より渡来した黄檗宗の開山・隠元禅師を、長崎から京都まで案内してきた傑僧である。また浄福寺が竜宮門を構えるのも、一つには虚櫺和尚の影響ではないだろうか。竜宮門といえば、黄檗宗総本山・万福寺の象徴でもある。

 ところで、青森県の日本海側、北津軽郡市浦村の十三湖西側に十三湊遺跡がある。中世の豪族安藤氏の本拠地であったが、これまで十三湊と明記した文書は少なく、「幻の中世都市」といわれてきた。

 その都市が、広島県立文書館に預託してある浄福寺蔵の大般若経のうち、第三百九十九巻の奥書から発見された。奥書には応安四年(一三七一) 奥津軽十三湊に住む僧快融が、願主快印のもとで書写したとある。国立歴史民族博物館の小島道裕助教授は、十三湊を明記した繁栄期(十四~十五世紀) の文書は初めての確認。日本海航路による東西交流を窺わせる極めて重要な史料という。

 境内の石垣は、中世の城郭を彷彿とさせ、天正年間築造との鑑定を受けている。

 寺宝に、至徳年間(一三八四~八七)作・大般若経写本。脇侍に四天王のうち二体を安置。達磨大師立像。虚櫺和尚書、狩野探幽筆・出山の釈迦図・福島正則公の位牌なども所蔵している。


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