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【御詠歌】
るり光の 波間にゆられ おろがみて
大願秘める 心いやされ
【厳島神社のこと】
宮島の語源は、神を斎きまつる島に由来する。
それ故、島自体を御神体に仰ぎ、有ノ浦の静かな入江を斎庭として、鳥居や社殿を造営したのが厳島神社である。海に浮かぶ朱の大鳥居は、その象徴である。
平安時代に、平清盛が厳島神社を信仰したことは有名。『平家物語』 には、安芸守に任ぜられた平清盛が、高野山の大塔を修理して、詣でたときのことである。どこからともなく老僧が現れて、荒廃した厳島神社を修復すれば、「官位は肩をならぶる人なし」と告げた。このことを鳥羽上皇に奏聞して、鳥居や社を建て替え、百八十間の回廊を造営した。
長寛一一年(一一 六四)神社に奉納した「平家納経」の願文には、「弟子とも因縁あり、専ら欽仰を致す、利生掲縁、久しく家門の福縁を保つ」と口上して、ますます信仰を深めたという。
明治維新までの大願寺は、 厳島神社をはじめ、筥崎宮・宇佐神宮など全国の顕著な社寺の修理を司り、国中に勧進(托鉢) を許された大本願の職にあった。
寺伝によると、 正しくは、「亀居山放光院大願寺」と称す。 厳島弁財天を奉安しているところから、別名を「弁財天本堂」 ともいう。
建仁年間(一二〇一~三三)僧了海により再興。それ以来のことは明らかでない。山号「亀居山」は、五重塔、大経堂(千畳閣)が建つ塔の岡のことで、以前は岡の下にあったが、手狭になったため、現在の位置に移転した。
この両堂塔および多宝塔など境内にあった諸堂宇を含めて厳島伽藍と称す。その中心が大願寺であったが、現在は山門と僧坊(現在の本堂)だけを残す。 その僧坊に諸堂宇の本尊をお迎えしているため、 他の寺院と異なり、建物の前面が本堂、後 が庫裡になっている。
【文化遺産の数々】
薬師如来像(重文)は、 現在の本堂の本尊であり秘仏であったが、篤信者の尊望に応えてあえて公開するようになった。弁財天は江ノ島、竹生島と共に日本三弁財天の随一として有名。秘仏のため明治時代に勧請した尊像を拝す。
寺伝では、弘法大師が唐より帰還の途に宮島へ立ち寄られたとき、自作の弁財天を厳島大明神として安置。明治初年の神仏分離に際して、当山へお迎えした。昔は六十年ごとの御開扉であったが、時代の変遷に応えて、年に一度の開扉となった。
秀吉公の大経堂 (千畳閣)建立 (未完成) や毛利元就、輝元公による神社の修復に際して、当寺が果たした役割は、古文書(資料館寄託) によってもわかる。また維新前後に伊藤博文公をはじめ、井上馨、大隈重信公なども参詣している。
一方、維新史に残ることとしては、長州の乱の終結を円滑にするために、幕府の代表勝海舟と長州の代表木戸孝允との和平会談が、当寺で行われ た。会談が行われた室には、秀吉公寄進の酒壺、陣中で使用の枕屏風なども展示してある。
この他に、清盛公はじめ毛利元就父子が使用したという厳島大風呂、伊藤博文公の軸「厳島本願大道場」、豊公大経堂建立の依頼状、輝元公神社修復の依頼状なども、 併せて町立歴史民族資料館に寄託してある。