米子市が城下町として発展したのは、出雲の月山城主・吉川広家が、湊⼭に 居城を構築したことに始まる。
その後、鳥取藩の家老・荒尾氏が入封して、明治維新を迎えたが、城跡には本丸・天守閣・二の丸などの石垣を残す。
中世の城下町が寺町を構成したのは、城郭を防御する役目を担っていた。米子も例外ではなく、市街に大伽藍を構える寺院の中にあって、ひときわ目を引くのが安國寺である。
寺伝には、暦応二年(一三三九)創建、足利尊氏が開基。昔は会見郡大寺村にあったが、足利氏の勢力が衰えるとともに詳細は不明にとなり、応仁二年(一四六八)端翁玄鋭和尚が中興し、曹洞宗に改宗した。その後、永禄八年(一五六五)毛利氏と尼子氏の戦いで兵火にかかり伽藍および古記録などを焼失。慶長五年(一六〇〇)中村一忠が米子入国の際、現在地に移転して再建された。
『伯耆誌』には、こう記す。
―伯耆国安國寺は、大寺にあって三千石を領して、六十の坊舎を有する⼤伽藍であったが、永禄年間(⼀五五八~ 七〇)江美城攻略の際、尼⼦の敗将が安國寺にたてこもったとき、尾高城主杉原盛重の率いる毛利方に焼き討ちされて、借しくも焼失してしまった。