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【御詠歌】
南無薬師 牛頭天王の み親にて
救いは日々に あらたなりけり
明治二十八年に刊行された「鳥取県図」の裏面に、案内記として、草創期の著書といえる興味深い文章を載せてある。
少し長くなるが、まずはそれを紹介しよう。
「見よ彼の山久松山なり。この山には池田氏の旧城あり、この山の麓にて、是なるは鳥取県庁なり。是より市街を巡覧せば、郡役所・裁判所・師範学校・中学校・郵便電信局・銀行・その他招魂社あり、市中には智頭・若桜・鹿野の往還ありて、山陰道屈指の大都会たり・・・・・。この久松山に接して最勝院がある。
『全国寺院名鑑』には、次のように記す。
―和銅二年(七〇九) 法道仙人の開基。初め宝寿院と号した。寛永九年 (一六三二) 最勝院と改称す。池⽥藩主より寺領を受ける。年 (一八七〇) 如意山養寿院を合併して医王山する。ときに教雲師が復興に努⼒、現住がその志を嗣いで美観を整えた。芭蕉の笠塚、臥雲松碑がある。
開基の昔は、美濃国 (岐⾩県) にあった。やがて池田家の祈願寺となり、随僧して播磨・備前に移る。寛永九年 (一六三二) 藩主の国替えにより鳥取城下に移転してきた。
当時は寺町にあって、いわゆる領内八カ寺筆頭に優遇された。仏像・古書も多く、壮⼤な伽藍を有したが、二度の火災に遭って再建のこともなく、明治三年、養寿院と合併した。
弘法大師御入定千百五十年御遠忌大法会を待ち受ける昭和五十二年、高野山真言宗・高峰秀海管長のご親教を仰ぎ、奥の院に大灯籠を奉納し庫裡再建を発願。昭和五十八年四月二十九日に落慶法要が行われた。導師の高野山真言宗・森寛紹管長は、「鶯の啼いて落慶大法会」と「筍の踏まれもせずに墓参道」の二句をお詠みになった。