神代の昔、出雲族と大和族の対立は、大和族の勝利に終わった。
奈良時代に大和朝廷が確立されると、伯耆・因幡国は郡家から智頭へ入り、志戸坂峠を越えて山陽道に出た。これを「智頭往来」という。最大の難所は、標高五百八十メートルの志戸坂峠越えである。俗に三十三曲りともいわれるが、この途中に剣豪・宮本武蔵の里がある。
一方、鳥取藩主が参勤交代することから、鳥取県側では「上方往来」という。この道に沿って走るJR因美線・津の井駅より西南に約一・五キロほど離れた集落に森福寺がある。
この地方は、国宝『因幡薬師絵巻』にもあるに、薬師信仰の篤い土地柄である。森福寺もその一刹で、因幡薬師霊場縁起に、次のように記す。
平安朝の中期、伯耆の国、三徳山の僧秀道法印が、八坂山谷の地に草庵を結び、止観を行じていたのが創めである。
その後、いくばくもなくして山崩れのため堂舎埋没して跡を止めずという。のち慶長年間 (一五九六~一六一五) 高草郡玉津城主武田高信の旧臣
横山六郎右衛門が、主君高信の菩提を弔うため、播州姫路の景福寺の大桂宗蛮禅師の随従、道久和尚 (号を益雲といい寛永十四年四月遷化、その出自について、当所雨河右近の弟とも、また一説には武田高信の遺児武田源三郎の後⾝ともいう)を請じ、邑美郡三戸古保古郡家村 (現在地) に禅刹を建⽴し三徳山森福寺と号した。